東京高等裁判所 平成5年(ネ)4451の1号 判決 1995年1月30日
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は控訴人の負担とする。
理由
一 被控訴人の特別代理人について
本件のような場合には、戸籍上の父親である控訴人と子である被控訴人の利益が相反する関係にあるとして、民法八二六条によつて子のために特別代理人を選任するのが相当である。そして、右特別代理人と利益相反の関係にない親権者(母親)とが共同して子のための代理行為をすべきものである。
二 《証拠略》によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。
1 控訴人と花子とは、昭和六二年一一月一八日婚姻し、川崎市内のアパートで同居したが、結婚当初からささいなことでのいさかいが絶えず、双方の考え方の違いが次第に目立つてきて、相互に不信、不満を抱くようになり、控訴人は、昭和六三年一〇月一二日、花子との生活に耐えられなくなつて、離婚話を持ち出してアパートを飛び出し、以後別居するようになつた。
2 花子は、平成元年七月二七日、被控訴人を分娩し、被控訴人は、出生届により控訴人と花子との嫡出子として戸籍上記載されるに至つた。
3 控訴人は、被控訴人が自分の子であることに疑問を抱き、平成元年一一月二一日ころ、嫡出否認の調停の申立てを行つたが、当事者の合意に至らず、平成二年一〇月一五日、調停不成立で手続が終了し、控訴人は家事審判法二六条二項が定める二週間の期間を経過した後の同年一一月一五日に嫡出否認の訴えを提起したが、後日取り下げた。その後、控訴人は、親子関係不存在確認の調停を経て、本件の親子関係不存在確認の訴訟を提起した。
三 ところで、民法七七二条は、妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定し、この推定を覆すには民法七七五条による嫡出否認の訴えによるほかなく、この訴えは夫のみに許されたものであり(民法七七四条)、夫が子の出生を知つた時から一年以内に提起しなければならないとされている(民法七七七条)。以上が民法における嫡出性の推定の制度であり、これは、第三者が他の夫婦間の性生活といつた秘事に立ち入つて子の嫡出性を争う手段を封じて家庭の平和を維持すること、出訴期間を定めて早期に法律上の父子関係を安定させ、子の養育環境を確立することを目的としているものと解される。
右の立法趣旨からすると、法律上の婚姻関係が継続しているが、事実上の離婚状態で夫婦の実態が完全に失われているような場合や夫の長期間の不在の場合など妻が夫の子を懐胎する可能性がないことが外観上明白な事情があるときは右の嫡出推定が排除されるという解釈が可能である(最高裁判所第一小法廷昭和四四年五月二九日判決・民集二三巻六号一〇六四頁参照)。さらに、右のような場合に限らず、生殖能力の欠如、血液型の背馳がある場合であるとか、人類学的にみて父子関係があり得ない場合のように、客観的かつ明白に父子関係を否定することができ、かつ、懐胎した母親と夫との家庭が崩壊し、その家庭の平穏を保護する必要がない場合にも、嫡出推定を排除することが可能であると解することができる。
しかし、右の客観的かつ明白に父子関係を否定することができるというのは、何人も疑いを差し挟まないような信頼するに足りる科学的証拠によつて立証されることが必要であつて、供述証拠等を含む諸般の証拠による推認を要する場合には、たとえその証明が証拠の優越の程度ではなく確信に至る程度のものであつても、嫡出推定を排除することができないといわなければならない。
なぜならば、嫡出性の推定の有無という身分関係にかかわる事項は、単にその訴訟の当事者の利害に関係するにとどまらず、それ以外の者の利害にも影響することがあり得る事柄であり、また、父子関係の安定という子の福祉にかかわる事柄でもあるから、何人にも納得がいく証拠によつて証明することが要求され、虚偽の可能性が絶無ではない供述証拠等を基礎に判断することはできないというべきである。
四 本件についてみると、花子が被控訴人を懐胎(受精)した時期は、《証拠略》によつて認められる、昭和六三年一二月二六日における胎児の頭殿長が四センチメートルであるという事実を前提に、《証拠略》によつて認められる医学的知見(胎児の頭殿長四センチメートルに対応する妊娠週数が一〇週六日であること、予定月経の一四日前(前後二日の誤差)が排卵日であり、ほぼこの日に受精すること)を当てはめると、昭和六三年一〇月二五日前後ということができる(ただし、二八日型月経であることを前提とする。)。
この時期は、すでに控訴人が花子と別居をしているが、別居後まもなくの時期であり、外観上夫婦の実態が失われたものとは認めることはできないというべきであるから、嫡出推定を排除する外観上ないし客観的に明白な事情があるということはできない。また、被控訴人が出生した平成元年七月二七日は、控訴人と花子とが別居した昭和六三年一〇月一二日から二八九日目に当たり、民法七七二条二項が婚姻解消若しくは取消の日から三〇〇日以内に出生した子にも嫡出推定を及ぼしている趣旨に照らしても同様の結論となる。
次に、控訴人と被控訴人との間に親子関係がないという控訴人の主張は、控訴人と花子との間において昭和六三年二月以降性交渉がなかつたが、同年一一月二二日にだけは性交渉があつたという事実関係を前提としており、花子の妊娠の診断や分娩の経緯などからその懐胎(受精)の時期を確定して、右の性交渉によつて花子が懐胎する可能性がないことを証明しようとするものである。
しかし、控訴人が前提とする控訴人と花子との性交渉の時期に関する証拠は、本件記録中控訴人及び花子の各供述及び各供述書だけであり、これらの証拠は、何人も疑いを差し挟まない、信頼するに足りる証拠ということはできず、父子関係が存在しないことの証拠とすることはできない。そして、花子が被控訴人を懐胎(受精)した日を正確に確定することができたとしても、控訴人が前提とする控訴人と花子との性交渉の時期に関する右の証拠を除外すると、結局、控訴人と被控訴人との間に父子関係がないことの立証はされていないことになる。
五 控訴人は、被控訴人が父子関係の存否に関する鑑定嘱託の申請に協力しないことが証明妨害であり、主観的立証責任が転換されるべきである旨主張する。
控訴人が、原審において、控訴人と被控訴人との父子関係の存否を鑑定嘱託事項として鑑定嘱託の申請をし、原裁判所がこれを採用して鑑定嘱託をし、控訴人の血液の採取がされてその検査が行われたが、被控訴人及び母の花子の血液の採取ができずに鑑定嘱託の結果が得られなかつたことは記録上明らかであり、控訴人が、当審において、同趣旨の鑑定嘱託の申請をしたが、被控訴人等の協力が得られずに鑑定嘱託が採用されなかつたことは、当裁判所に顕著である。
たしかに、前述のように嫡出推定の排除のための立証に何人も疑いを差し挟まないような信頼するに足りる証拠を要求すれば、通常血液鑑定に頼らざるを得ないことになるが、親子関係不存在確認の調停が成立せずに訴訟に至つた事案においては、血液鑑定への相手方の協力が期待し難いことが多いものと思われる。しかし、前記のとおり当事者の利害だけにとどまらない公益性のある身分関係訴訟においては、一方当事者の訴訟上の態度によつて、立証上その者に不利益な判断をすることは許されない。ちなみち、文書提出命令に応じない当事者に対して不利益な判断をすることを許容した民訴法三一七条の規定は、親子関係事件には適用されないのである(人事訴訟手続法三二条、一〇条一項)。
したがつて、控訴人の右主張は採用できない。
六 結び
以上の次第で、本件においては、控訴人と被控訴人との父子関係を客観的かつ明白に否定する証拠はないので、民法七七二条の嫡出の推定が排除されることはなく、これを覆すには嫡出否認の訴えによらなければならない場合であるから、親子関係不存在確認を訴えを提起することはできない。したがつて、控訴人の本件訴えを不適法として却下した原判決は相当であるから、本件控訴を棄却し、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 矢崎秀一 裁判官 及川憲夫 裁判官 浅香紀久雄)